朝基の出生と家族背景
本部朝基(もとぶちょうき)は、1870年4月5日に沖縄県那覇市首里に本部御殿(もとぶうどぅん)の当主である本部按司(あじ:「あるじ(主)」の変化した語) 朝真の三男として生まれました。本部御殿とは、琉球王国の国王家から分かれた王族で、日本の宮家に相当する地位がありました。また、彼らは代々本部間切(現在の本部町)を領する大名でもありました。彼は子供の頃から実に身軽ですばしっこく、「本部御殿の猿御前(サーラーウメー)」や「本部の猿(サールー)」と呼ばれていました。
反骨精神と実戦経験
幼少時から武術を好んだ本部朝基は、12歳から首里手の大家・糸洲安恒に師事しました。その後も多くの大家から教えを受け、「武これ我、我これ武」の信念を持って唐手の修行に打ち込みました。型の稽古だけでなく、遊郭の辻町で数々の実戦経験を積みました。その反骨精神は唐手家の一部からは批判されましたが、24、5歳でその名声は知れ渡っていきました。
学問と交友
朝基が大家たちから学べたのは、旧王族の出自が理由の一つでした。また、親友の屋部憲通と組手研究を重ね、それが後の著書に結実しました。明治政府の旧慣温存策1も、朝基が多くの大家に師事できる背景だったのです。
名声の拡大 ボクサー撃破から伝説へ
大正時代以降、本部朝基は日本全国でその名前が広まるようになりました。大正10年代には京都での試合で一撃必殺の強さを披露し、全国的にその名を知られる存在となりました。
1922年(対象11年)、大阪にいた朝基は、偶然見ていたボクシングの試合に飛び入りで参加しました。巨漢のロシア人ボクサー2と対戦し、2ラウンド目に一本拳の強打を放って相手を失神させたという伝説が残っています。この時、本部は52歳でしたが、本土においては当時ほとんど知られていなかった沖縄の唐手術の実戦力を公の場で見せつけたという訳です。
偉大な足跡とその遺産
朝基は、昭和12年に一時帰郷し唐手の調査を行った後、再び東京に戻りましたが、昭和16年には郷里で余生を過ごすため沖縄に戻りました。そして昭和19年、75歳で亡くなりました。
彼は温厚な人柄であり、弟子たちからも深く慕われていました。彼ら弟子たちにより新たな流派も派生してますが、朝基の空手は脈々と受け継がれ、嫡男の本部朝正(もとぶちょうせい)は本部流宗家を継承しています。
<脚注>
- 琉球の古い制度を残し急激な改革は避けるという政策 ↩︎
- この飛び入り試合は1922年11月に京都で行われたとされていますが、具体的な会場は不明です。朝基が対戦した相手もこれを最初に取り上げた雑誌の記事では「ジョージ」とあるのみ、国籍などは分かっていません。一方、朝基自身は1933年の琉球新報のインタビューで、相手を「ジョン何とか」と述べています。その他、相手はロシア人のジョン・ケンテルだった説や、無名のプロボクサーだった説もあります。また、ジョンソンだったとする文献もありますが、当時のロシアでジョンソンという名自体が希有であり、実際のところ対戦相手の正体は不明のままです。 ↩︎
- 日本の空手界において重要な存在であり、昭和時代を代表する空手家の一人。彼は和道流空手道の創始者であり、自身が修行した柔術に空手を取り入れて和道流柔術拳法も確立しました。 ↩︎
- 昭和初期の日本ボクシング界において象徴的存在で「拳聖」として知られていました。元日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級のチャンピオンで、堀口4兄弟の長兄としても知られています。 ↩︎
- 空手の型の中でも重要な位置を占める一つが「ナイファンチ」です。古くから空手修行者が最初に習う基本型として知られ「形はナイファンチに始まり、ナイファンチに終わる」といわれるほどです。特に首里手や泊手の流派では、この型を最も重視してきました。 ↩︎
参考記事:沖縄空手 三大系統と流派
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