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【 糸洲安恒 】 空手道の未来を切り開いた男「糸洲十訓」の教えとは

糸洲安恒(イトスアンコウ) 偉大な空手家たち
糸洲安恒(イトスアンコウ)Okinawa Karate Kaikan, CC0, ウィキメディア・コモンズ経由で
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空手の教育に尽くした巨人

糸洲安恒(イトスアンコウ)は沖縄県出身の空手家で、琉球王国時代から明治時代にかけて活躍した重要な人物です。

糸洲は首里手の大家松村宗棍や漂着人の禅南(チャンナン)から唐手を学び、泊手や那覇手など異なる流派の修行にも取り組みました。苦労して技術を習得し、知花朝信喜屋武朝徳船越義珍など多くの弟子を育成しました。

糸洲は体重90kgの巨漢で、巻藁突きの稽古に熱心であったとされています。晩年は県立学校で唐手を教え、85歳で亡くなりました。

糸洲の弟子である屋部憲通本部朝基の記録を通じて、糸洲が那覇手の技法を取り入れるなど唐手の近代化に貢献したことが分かります。糸洲の唐手観は『糸洲十訓』に示され、その影響力は現代の空手にも及んでいます。糸洲は空手の先駆者として高く評価されています。

「糸洲十訓」とは

糸洲安恒は「糸洲十訓(唐手心得十ヶ條)」と呼ばれる訓示を残しました。
1908年(明治41年)に、糸洲が沖縄県立中学校(現:沖縄県立首里高等学校)の空手師範を務めていた際に、生徒たちのためにまとめられたものです。「糸洲十訓」は、空手道の技術だけでなく、心構えや精神性についても説いています。
以下 この十訓を読み解き、解説してみます。

糸洲十訓(唐手心得十ヶ條)

序文

【原文】唐手は儒仏道より出侯ものに非ず住古昭林流昭霊流と云う二派支那より伝来したるものにして両派各々長ずる所ありて其侭保存して潤色を加え可らざるを要とす仍而心得の條々左に記す
 ➡【解説】「唐手は儒仏道より出侯ものに非ず」とは、空手道は儒教や仏教などの思想から生まれたものではなく、古くから中国に伝わっていた武術であるということです。「住古昭林流昭霊流と云う二派支那より伝来したるものにして両派各々長ずる所ありて其侭保存して潤色を加え可らざるを要とす」とは、空手道には昭林流と昭霊流という二つの流派があり、それぞれに長所と短所があることを述べています。そして、両流派の長所を活かし、短所を補いながら、空手道の本来あるべき姿をそのまま保存していくことが重要であるとしています。「仍而心得の條々左に記す」とは、このように空手道の起源と目的を理解した上で、空手道の心得を記すことを述べています。つまり、この序文は、空手道を学ぶ際には、その起源と目的を理解し、空手道の本来あるべき姿を尊重することが大切であるということを説いています。

糸洲十訓(唐手心得十ヶ條)
糸洲十訓(唐手心得十ヶ條)
Nakasone Genwa, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

第一条

【原文】
一 唐手は体育を養成する而己ならず何れの時君親の為めには身命をも不惜義勇公に奉ずるの旨意にして決して一人の敵と戦う旨意に非ず就ては万一盗賊又は乱法人に逢ふ時は成たけ打ちはずすべし盟て拳足を以て人を傷ふ可らざるを要旨とすべき事

【解説】
第一条は空手道の目的について述べたものです。「唐手は体育を養成する而己ならず」とは、空手道は単なる体育の手段ではなく、より高い目的を持っているということです。「何れの時君親の為めには身命をも不惜義勇公に奉ずるの旨意にして」とは、空手道は、主君や親のために命をかけてでも戦うという精神を養うための武術であるということです。「決して一人の敵と戦う旨意に非ず」とは、空手道は、一人の敵と戦うことを目的としたものではないということです。「就ては万一盗賊又は乱法人に逢ふ時は成たけ打ちはずすべし盟て拳足を以て人を傷ふ可らざるを要旨とすべき事」とは、万が一盗賊や乱暴者に遭遇した場合には、あくまでも身を守るために空手道の技術を用いるべきであり、人を傷つけることはあってはならないということです。つまり、空手道は、単なる武術ではなく、人格形成や社会貢献のための武術であるということを説いています。

第二条

【原文】
二 唐手は専一に筋骨を強くし体を鉄石の如く凝堅め又手足を鎗鋒に代用する目的とするものなれば自然と勇武の気象を発揮せしむ就ては小学校時代より練習致させ候はば他日兵士に充るの時他の諸芸に応用するの便利を得て前途軍人社会の一助にも可相成と存候最もウエルリントン侯がナポレオン一世に克く捷せし時曰く今日の戦勝は我国各学校の遊戯場に於て勝てると云々実に格言とも云ふ可き乎

【解説】
第二条は、空手道の技術について述べたものです。「唐手は専一に筋骨を強くし体を鉄石の如く凝堅め又手足を鎗鋒に代用する目的とするものなれば」とは、空手道は、筋骨を鍛え、体を強くして、手足を剣のように扱えるようにすることを目的としているということです。「自然と勇武の気象を発揮せしむ」とは、空手道の練習によって、自然と勇気や気迫といった精神性が磨かれるということです。「就ては小学校時代より練習致させ候はば他日兵士に充るの時他の諸芸に応用するの便利を得て前途軍人社会の一助にも可相成と存候」とは、空手道を小学校時代から練習しておけば、将来、兵士になったときに他の諸芸に応用することができ、軍人社会の一助にもなるだろうということです。「最もウエルリントン侯がナポレオン一世に克く捷せし時曰く今日の戦勝は我国各学校の遊戯場に於て勝てると云々実に格言とも云ふ可き乎」とは、イギリスのウェリントン公爵が、ナポレオン一世に勝利した際に、「今日の戦勝は、我が国の各学校の遊戯場で勝ったのだ」と言ったという逸話を引用し、空手道の練習が戦勝につながることを示唆しています。つまり、空手道は、単に強い身体を鍛えるだけでなく、戦闘力にもつながる武術であるということを説いています。

第三条

【原文】
三 唐手は急速には熟練致し難く所謂牛の歩の寄りうすくとも終に千里の外に達すと云ふ格言の如く毎日一二時間位精入り練習致し候はば三四年の間には通常の人と骨格異り唐手の蘊奥を極める者多数出来可致と存候事

【解説】
第三条は、空手道の修練について述べたものです。「唐手は急速には熟練致し難く」とは、空手道は、すぐに身につくものではなく、長い時間をかけて修練を積むことが必要であるということです。「所謂牛の歩の寄りうすくとも終に千里の外に達すと云ふ格言の如く」とは、牛は歩幅が小さくても、毎日歩き続けることで、やがて遠くまで到達するという格言を引用し、空手道の修練も、毎日コツコツと積み重ねていくことが大切であるということを説いています。「毎日一二時間位精入り練習致し候はば三四年の間には通常の人と骨格異り唐手の蘊奥を極める者多数出来可致と存候事」とは、毎日1~2時間ほど、集中して練習すれば、3〜4年の間には、通常の人とは骨格が異なり、空手道の奥義を極める人がたくさん出てくるだろうと述べています。つまり、この第三条は、空手道の修練には、忍耐と努力が必要であり、地道な練習を積み重ねることで、高い技術を身につけることができるということを説いています。

第四条

【原文】
四 唐手は拳足を要目とするものなれば常に巻藁にて充分練習し肩を下げ肺を開き強くカを取り又足も強く踏み付け丹田に気を沈めて練習すべき最も度数も片手に一二百回程も衝くべき事

【解説】
第四条は、空手道の基本動作である拳足の練習について述べたものです。「唐手は拳足を要目とするものなれば」とは、空手道は、拳や足の技術が重要であるということです。「常に巻藁にて充分練習し」とは、巻藁を使って、拳や足の打ち込みを十分に練習することです。「肩を下げ肺を開き強くカを取り」とは、肩を下げて、胸を張り、腹に力を込めることです。「又足も強く踏み付け丹田に気を沈めて練習すべき」とは、足もしっかりと踏み込んで、丹田に気を沈めて練習することです。「最も度数も片手に一二百回程も衝くべき事」とは、片手につき100~200回程度は、拳や足を打ち込む練習をすべきであるということです。つまり、この第四条は、空手道の基本動作である拳足の練習は、十分な量と質で行うことが重要であるということを説いています。

第五条

【原文】
五 唐手の立様は腰を真直に立て肩を下げカを取り足に力を人れ踏立て丹田に気を沈め上下引合する様に凝り堅めるを要とすべき事

【解説】
第五条は、空手道の構えについて述べたものです。「唐手の立様は腰を真直に立て肩を下げカを取り足に力を人れ踏立て丹田に気を沈め上下引合する様に凝り堅めるを要とすべき事」とは、空手道の構えは、腰を真っ直ぐに立て、肩を下げて、腹に力を込め、足をしっかりと踏み込んで、丹田に気を沈め、上半身と下半身を引き合わせるように凝り固めることが重要であるということです。

第六条

【原文】
六 唐手表芸は数多く練習し一々手数の旨意を聞き届け是は如何なる場合に用ふべきかをを確定して練習すべし且入受はずし取手の法有之是又口伝多し

【解説】
第六条は、空手道の型(形)の練習について述べたものです。「唐手表芸は数多く練習し」とは、空手道の型は、数多く練習することが重要であるということです。「一々手数の旨意を聞き届け」とは、型の中の各動作の意味を理解して練習することです。「是は如何なる場合に用ふべきかをを確定して練習すべし」とは、型の中の各動作は、どのような場合に用いるのかを理解して練習することです。「且入受はずし取手の法有之是又口伝多し」とは、型の中には、入身、受け、払い、取り手などの技術が含まれているが、これは口伝で伝えられることも多いということです。つまり、この第六条は、空手道の型の練習は、単に動作を覚えるだけでなく、その意味や用途を理解して行うことが重要であるということを説いています。

第七条

【原文】
七 唐手表芸は是れは体を養ふに適当するか又用を養ふに適当するかを予て確定して練習すべき事

【解説】
第七条は、空手道の型の練習の目的について述べたものです。「唐手表芸は是れは体を養ふに適当するか又用を養ふに適当するかを予て確定して練習すべき事」とは、空手道の型は、体を鍛える目的で練習するのか、技術を磨く目的で練習するのか、あらかじめ目的を明確にして練習すべきであるということです。

第八条

【原文】
八 唐手練習の時は戦場に出る気勢にて目をいからし肩を下げ体を堅め又受けたり突きたりする時も現実に敵手を受け又敵に突当る気勢の見へる様に常々練習すれば自然と戦場に其妙相現はるものになり克々注意すべき事

【解説】
第八条は、空手道の練習の心構えについて述べたものです。「唐手練習の時は戦場に出る気勢にて目をいからし肩を下げ体を堅め又受けたり突きたりする時も現実に敵手を受け又敵に突当る気勢の見へる様に常々練習すれば自然と戦場に其妙相現はるものになり克々注意すべき事」とは、空手道の練習をするときは、戦場に出るような気勢で、鋭い目つきで、肩を下げ、体を固め、受けたり突いたりするときは、現実に敵の攻撃を受け、敵に突き当たる気勢で練習するべきであるということです。つまり、この第八条は、実戦的な技術を身につけるためには、常に戦場にいるような緊張感を持って練習することが重要だということです。

第九条

【原文】
九 唐手の練習は体力不相応に余りカを取過しければ上部に気あがりて面をあかめ又眼を赤み身体の害に成るものなれば克々注意すべき事

【解説】
第九条は、空手道の練習における力の入れ方について述べたものです。「唐手の練習は体力不相応に余りカを取過しければ上部に気あがりて面をあかめ又眼を赤み身体の害に成るものなれば克々注意すべき事」とは、空手道の練習は、体力に見合わない過度な力を入れすぎると、頭に血が上って顔を赤くし、目が赤くなり、身体に害を及ぼすことになるため、注意すべきであるということです。

第十条

【原文】
唐手熟練の人は往古より多寿なるもの多し其原因を尋ねるに筋骨を発達せしめ消化機を助け血液循環を好くし多寿なる者多し就いては自分以後唐手は体育の土台として小学校時代より学課に編入り広く練習致させ候はば追々致熟練一人にて十人勝の輩を沢山可致出来と存侯事

【解説】
第十条は、空手道の健康効果と、空手道を体育の土台として普及させることの重要性について述べたものです。「唐手熟練の人は往古より多寿なるもの多し其原因を尋ねるに筋骨を発達せしめ消化機を助け血液循環を好くし多寿なる者多し就いては自分以後唐手は体育の土台として小学校時代より学課に編入り広く練習致させ候はば追々致熟練一人にて十人勝の輩を沢山可致出来と存侯事」とは、「空手に熟達した人は、昔から長寿の者が多い。その原因を調べてみると、空手の練習が筋骨の発達を促し、消化器を丈夫にして、血液の循環をよくするので長寿者が多いということです。それで、空手は自分以後は、体育の土台として小学校時代から、学課に編入して広く多くの者に練習させていただきたいと思います。そうすれば、追々一人で十人の相手にも勝てる者が多く出てくると思います」と述べているのです。

今に活きる空手道の原点

糸洲十訓は、糸洲自身の空手道の理念や考え方をまとめた訓示であり、空手道の普及と発展に大きな影響を与えました。この遺訓は、空手道の基本的な理念や考え方を継承し、今日に至るまで広く尊重されています。

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