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空手の先駆者 喜屋武朝徳の功績と歴史的な足跡

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喜屋武朝徳 偉大な空手家たち
喜屋武朝徳 Nakasone Genwa, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由
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生い立ちと家族

1870年(明治3年)、由緒ある王族の家系、喜屋武朝扶(きゃんちょうふ)の三男として首里儀保村(現・那覇市首里儀保町)に生まれた喜屋武朝徳。彼は目が小さいことから「喜屋武(チャン)・目(ミー)小(グヮー)」と呼ばれていたようです。朝徳の父、朝扶は、琉球王国末期から明治時代にかけて活躍した著名な政治家でした。彼は廃藩置県後、王族に仕える要職にあり、その政治的な手腕で地域社会に深い影響を与えました。朝扶はまた、唐手の分野でも知られる存在でした。松村宗棍に師事し、唐手の技術と精神を深めました。父朝扶は、政治家としての卓越したキャリアと並行して、唐手の伝統を受け継ぐ重要な存在だったのです。


武道への旅立ち

そんな家柄に育った朝徳は父から引き継いだ家の名誉を背負いながら、自身も喜屋武家の伝統を守りつつ、政治家としての道を歩みました。朝徳は幼少の頃から兄朝弼(ちょうひつ)と共に父から角力(沖縄の相撲)の手ほどきを受け、15歳で正式に唐手を師事し、16歳で松村宗棍の指導を受け五十四歩(スーシホ)1を学びました。


修行と指導者として

朝徳は大学進学の為に父と共に上京し、大学で漢学を学びつつも、父とともに唐手の鍛錬に励み、約9年後に26歳で沖縄に帰郷しました。その後、泊手の大家・松茂良興作や親泊興寛、真栄田親雲上らに師事し、38歳の頃には読谷村牧原に移住し、養蚕や荷馬車引きをしながら生計を立てたとされます。名家の出身でありながら、特別な待遇などは受けられず、困難な生活を余儀なくされた様です。

この移住先で朝徳は「北谷屋良公相君」(チャタンヤラクーサンクー)という伝統の型を学び、その後読谷村に住むようになった喜屋武は、1910年には読谷村比謝橋に居を構え、沖縄県立農林学校や嘉手納警察署で唐手を指導する様になります。 1924年には那覇の大正劇場で開催された、名立たる著名な空手家たちと共に「唐手大演武大会」や「沖縄唐手研究倶楽部」にも参加しました。


晩年と遺産

同年、八重山に渡った朝徳は少林流に伝わる唯一の棒術「徳嶺の棍」を習い、1930年には試合における心構えや技術の使い方について述べている「体と用、試合の心得」という論文を発表し、同年読谷村比謝橋に道場を構えました。1937年には「空手道基本型12段2」の決定に参画し、1939年に建てられた武道施設「武徳殿」の幕開けを祝った式典で、「チントウ3」の型を演武。朝徳が取りを務める大役の演武を行っています。

太平洋戦争の戦乱期、激しい地上戦が持ち込まれた沖縄で過ごし、やがて朝徳は米軍の捕虜収容所に収監されます。昭和20年(1945年)終戦から約1ヶ月過ぎた9月20日、沖縄県石川市の米軍捕虜収容所で栄養失調の為、76年の生涯を終えたとされます。


小柄ながらも実戦唐手家として多くの弟子を育てた喜屋武朝徳

弟子の練習を見守る喜屋武朝徳(中央)
弟子の練習を見守る喜屋武朝徳(中央)Fukushodo, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

朝徳は小柄で痩せた体格ながらも、実戦唐手家としての武勇伝が伝えられ、多くの弟子に恵まれました。喜屋武の弟子には、新垣安吉、島袋太郎、長嶺将真(松林流興道館)、島袋善良(少林流聖武館)、島袋龍夫(一心流)、島袋永三(少林流錬道館)、奥原文英(少林流少林会)、仲里常延(少林寺流求道館)らがいます。
喜屋武朝徳の遺産は、沖縄の武道文化に深く根付き、彼の教えや技は今なお多くの人々に受け継がれています。

  1. ウースーシやウーセーシなどとも呼ばれることもあります。空手で行われる伝統的な型で、基本的な技を連続して行い、身体能力や技術を高めるための訓練として実施されます ↩︎
  2. 屋部憲通、花城長茂、喜屋武朝徳、知花朝信、宮城長順ら諸先生によって制定された基本の型 ↩︎
  3. 空手道における型の一つ。松濤館流では「岩鶴(がんかく)」、少林寺流錬心舘(保勇)では「鎮東」、少林寺流求道館(仲里常延)では「鎮闘」と称されます。 ↩︎
参考記事

松茂良興作の武勇伝―泊手中興の創始者が描く琉球から明治の武道史 【泊手系統図掲載】

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