知花朝信の出生と家族背景
日本の武道である空手は、その歴史とともに多くの偉大な師範たちによって発展してきました。
その中でも知花朝信(ちばな ちょうしん)は、沖縄の空手界において特筆すべき存在です。
知花朝信は1885年に琉球王国の首里鳥堀村で生まれ、尚質王1(しょうしつおう)の五男である東風平王子朝春を元祖とする首里士族の一員で琉球王国時代に「知花殿内」と呼ばれる名家でした。彼の叔父は政治家で初代首里区長であり、唐手家としても知られる知花朝章でした。
空手の礎を築く: 若き日の修行
1899年、15歳の知花朝信は糸洲安恒という首里手2の大家に唐手を学ぶことになりました。入門までには3度目の挑戦でようやく許可が得られ、その後13年間、糸洲の指導のもとで唐手の修行に励みました。
その後独自の修行を3、4年積んだ後、1918年に島堀町に道場を創設しました。翌年には那覇区久茂地町に道場を移転しています。
小林流の誕生 空手への情熱
1926年に知花は「沖縄唐手研究倶楽部」に加入しました。この団体は沖縄の複数の唐手の大家が一堂に会し、唐手の共同研究を行うことを目的としていました。
そして1933年、首里手の本流とされる流派に小林流と名付け、その後も多くの弟子たちによって、小林流は受け継がれていきます。
小林流の特徴として、巻き藁での鍛錬を重視しており、アテファ(強い突きの威力)を特に強調しています。また、小林流の稽古では、自然な呼吸法で行うこととされており、力を無理に加えずに行うことが重視されています。このスタイルにより、小林流の修練者は長寿者が多いとされています。
youtubeチャンネル「manjigeri」より
小林流の発展と知花朝信の指導者としての役割
戦争の苦難を乗り越え、戦後、知花は首里に戻り、首里儀保町で空手の指導を再開します。1948年には沖縄小林流空手道協会の初代会長に就任し、1969年まで小林流の総帥的立場でその後の空手の普及に尽力しました。 また、1954年から1958年まで首里警察署の空手師範も務め、1956年(昭和31年)には沖縄空手道連盟の初代会長に就任しています。さらに1968年(昭和43年)には勲四等瑞宝章を受章しました。彼は空手の技術を伝承するだけでなく、その精神的な側面も重視し、多くの弟子たちに道を示しました。
知花朝信の教えの中から、いくつかを抜粋して紹介しておきます。
- 空手は、単なる武術ではなく、心身を鍛錬し、より良い人間になるための道である。
- 空手は、相手を傷つけるためではなく、自分を守るためにある。
- 空手は、技術だけでなく、心の修行も大切である。
- 空手は、生涯学び続けるものである。
知花朝信の遺産: 弟子たちの継承
知花朝信は1969年に83歳で亡くなりましたが、彼の空手界への貢献は今日でも称賛に値します。その精神と技術は、空手道の伝統を守り、次世代に引き継がれています。
知花朝信の弟子には宮平勝哉(「志道館」を創設)、仲里周五郎(「小林舘」を創設)、比嘉佑直(「究道館」を創設)、上間上輝(「守武館」を創設)、名嘉真朝増、島袋勝之、池原某、村上勝美、米沢次男などがいます。
特に比嘉佑直は沖縄空手界において大きな影響を与え、その後の空手の継承に寄与しました。
沖縄空手の統一組織形成
比嘉佑直は那覇市議会議員として8期26年にわたり務め、同時に戦後の沖縄空手界を牽引し、その後の沖縄空手の継承に大きな影響を与えました。彼の弟子である呉屋秀信は、比嘉佑直の指導のもと、沖縄の空手4団体を統合し、「沖縄伝統空手道振興会3」を設立するなど、沖縄空手の統一組織を形成する功績を築きました。
- 尚質王は琉球王国第二尚氏王統の第10代国王で、尚賢王の弟。中城王子として即位し、尚享が摂政を務めました。 ↩︎
- 参考記事「流派にみる伝統派空手の真髄 沖縄空手の三大系統」参照 ↩︎
- ●沖縄県空手道連合会 ●沖縄空手・古武道連盟 ●沖縄県空手道連盟 ●全沖縄空手道連盟 ↩︎
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