今や世界中で愛好者がおり、東京オリンピックでは正式種目にもなった「空手(KARATE)」。
道着を着て帯を締め、突きや蹴りを繰り出す姿は、日本の武道として広く知られています。
しかし、そのルーツがどこにあり、なぜこれほど多くの「流派」が存在するのか、詳しく知る人は意外と少ないのではないでしょうか?
今回は、中国から沖縄へ、そして本土から世界へと広がった壮大な空手の歴史と進化の物語を、詳細な年表とともに改めて紐解いていきます。
1. 源流は「中国」と「沖縄」の融合
空手の発祥は、かつての琉球王国(現在の沖縄県)にあります。
14世紀頃、琉球は中国(明)との貿易が盛んでした。この交流の中で、中国の福建省から中国拳法が伝来します。これと、沖縄古来の武術である「手(ティー)」が融合して生まれたのが、空手の原型である「唐手(トゥーディー)」です。
<参考記事>
空手の起源を徹底解説!空手はなぜ沖縄で生まれたのか?
武器を持たない「平和の武術」?
一説には、薩摩藩による琉球侵攻や、尚真王の刀狩りによって武器を持つことを禁じられた人々が、素手で身を守るために発展させたとも言われています。
この時代、空手は「門外不出の秘伝」。
地域によって、以下の3つの系統に分かれて密かに継承されていきました。
- 首里手(シュリテ):王城・首里を中心に発展。スピード重視。
- 那覇手(ナハテ):商業地・那覇で発展。呼吸法と肉体強化重視。
- 泊手(トマリテ):港町・泊で発展。変則的かつ実戦的。

2. 本土上陸と「四大流派」の誕生
明治時代に入ると、空手は秘伝から「体育」へと姿を変え、学校教育に取り入れられます。そして大正時代、達人たちが海を渡り、日本本土(内地)での普及が始まりました。
🥋 本土普及の第一人者:船越 義珍(ふなこし ぎちん)
空手を日本本土に広めた第一人者として、船越 義珍の名は欠かせません。

大正11年(1922年)、当時沖縄県師範学校の教師であった船越義珍は、文部省主催の「第一回体育展覧会」での演武のため上京します。これが、沖縄以外の一般の人々に空手が初めて公式に公開された歴史的な瞬間です。
この演武が大きな反響を呼び、彼は当初沖縄に戻る予定を変更し、東京に留まることを決意します。そして、各大学に空手部を創設して指導にあたり、その後の空手道の興隆の基礎を築きました。
船越義珍は、単なる技術だけでなく、空手を単なる格闘術ではなく、柔道や剣道のような「道」として確立しようと努めました。彼が提唱した「空手に先手なし」の精神は、空手道の理念として今も広く受け入れられています。
参考記事
空手界を牽引したレジェンド!【 船越義珍 】ふなこし ぎちん
「唐手」から「空手」へ
この頃、船越義珍や慶應義塾大学の研究会などが、仏教の「色即是空」の概念を取り入れ、表記を「唐手」から「空手」へと改められました。「徒手空拳(素手で戦う)」という意味も込められています。
昭和初期には、船越義珍の松濤館流をはじめとする、現代まで続く「四大流派」が確立されます。
こうして、現在の伝統派空手の基礎が出来上がりました。

3. 「フルコンタクト空手」の衝撃と格闘技ブーム
戦後、空手はスポーツ化が進み、寸止め(ノンコンタクト)ルールが主流となります。しかし、その一方で「実際に当てなければ、本当の強さはわからない」と提唱する動きが出てきました。
その実戦性に疑問を呈し、新たな潮流を生み出したのが 大山 倍達(おおやま ますたつ)です。
地上最強のカラテと極真会館
国際空手道連盟 極真会館の創設者である大山倍達(本名:崔 永宜)は、武道の真髄を追い求め、1964年に極真会館を設立しました。
彼は、伝統派の寸止めとは一線を画し、素手素足で直接相手の胴体に打撃を与える「直接打撃制(フルコンタクト)」を提唱。その実戦性から熱狂的な支持を集め、「地上最強のカラテ」として世界中に名が知れ渡りました。
参考記事
極真空手 vs 伝統空手 歴史、特徴、そして選択のポイント
1970年代には、漫画『空手バカ一代』や映画『燃えよドラゴン』のヒットにより、空前の空手ブームが到来。

- 伝統派(寸止め・型重視)
- フルコンタクト派(直接打撃・強さ重視)
大きくこの2つの流れができ、さらに極真会館から芦原会館や正道会館、大道塾などが分派・独立。プロ格闘技(K-1など)へ参戦する流派も現れるなど、空手は多様化の一途をたどります。

4. 【資料】空手の歴史・詳細年表
ここまでの流れを、重要な出来事とともに年表にまとめました。時代の変化とともに、空手の形が変わっていく様子がわかります。
第1期:琉球王国~明治(秘伝の時代)
| 年代 | 出来事 | 詳細・背景 |
| 1392年 | 久米三十六姓の渡来 | 中国(明)から福建省の職能集団が琉球へ移住。中国拳法伝来の契機とされる。 |
| 1429年 | 琉球王国の統一 | 尚巴志が三山を統一。 |
| 1609年 | 薩摩藩の琉球侵攻 | 薩摩の支配下となり、武術が士族の間で密かに「秘伝」として継承され始める。 |
| 1800年代 | 三大系統の確立 | 「首里手」「那覇手」「泊手」それぞれの達人が活躍し、型が形成される。 |
第2期:大正~昭和初期(本土普及と流派形成)
| 年代 | 出来事 | 詳細・背景 |
| 1901年 | 学校教育への採用 | 糸洲安恒の尽力により、沖縄の学校で「唐手」指導が開始。一般公開へ。 |
| 1922年 | 本土初の公開演武 | 船越義珍が東京の体育展覧会で演武。本土普及の第一歩。 |
| 1929年 | 「空手」への改称 | 「唐手」から「空手」へ表記が変わる。 |
| 1930年代 | 四大流派の確立 | 松濤館流、剛柔流、糸東流、和道流が組織化される。 |
第3期:戦後~現代(フルコンタクト誕生と世界化)
| 年代 | 出来事 | 詳細・背景 |
| 1948年 | 日本空手協会(JKA)結成 | 松濤館流を中心とし、競技化(寸止めルール)が進む。 |
| 1964年 | 極真会館 設立 | 大山倍達が「直接打撃制(フルコンタクト)」を提唱。 |
| 1969年 | 第1回全日本大会 | 極真主催のオープントーナメント。格闘技ブームの先駆け。 |
| 1973年 | 映画『燃えよドラゴン』 | 世界的な武術(マーシャルアーツ)ブームが爆発。 |
| 1980年 | 芦原会館 発足 | 芦原英幸が極真から独立。「サバキ」を確立し、以降多くの分派が生まれる。 |
| 1993年 | K-1 誕生 | 正道会館の石井和義が創設。空手家がグローブマッチへ進出。 |
| 2021年 | 東京オリンピック | 正式種目として採用。「形」と「組手」が世界に披露される。 |

5. そして世界へ
現在、空手は世界190以上の国と地域で愛好されています。
「礼に始まり礼に終わる」という精神性、美しい「型(KATA)」の演武、そして総合格闘技(MMA)でも通用する実戦性。
それぞれの流派が独自の色を持ちながら、「KARATE」という共通言語で世界中の人々を繋いでいます。
沖縄の小さな島で生まれた護身術が、長い歴史の旅を経て、世界の共通文化になったのです。



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